魂宮時

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舞樂36

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随分遅くなりました。1月?いや2月?それすら忘れたが舞台写真を投稿...
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by newflavor | 2011-04-28 02:31

舞樂35

「弓と禅」

「私」と「体」の関係性について現代人の身体観は無意識に自分は体の管理者であるかのように思い

込み、体をコントロールする「私」が主で、「体」は従であるという考えをあたりまえに思っている

のではないでしょうか?

しかし、以外にも体のことを実感としてわかっている方は少ないように思えます。

ここで大切なのは「実感として...」と言う部分です。

思考で理解するのではなく、感覚的に気づく知ることが重要であり身体が示してくれる信号を実感と

して受け止め読み解く能力、すなわち感性、感受性を高めなければなりません。

言葉=思考に傾向している現代人はこの曖昧な感覚というものを素直に信じられなくなってしまって

いるようにも観えます。

実際は言葉ほど曖昧でバーチャルなものはないはずなのですが...

昔から感覚を要するものの習得はからだで憶えろと言われるように、言葉を介して学習するのではな

く自分の中の新しい経験や気づきを自分の言葉で説明できるようになることが「身につく」という本

来の学習の目的ではないでしょうか?


話を戻し「私」と「体」の関係性について「弓と禅」から紹介します。

「何年も修行をし、師が認めるように矢を放つことに成功したとき、それを誇りに思うことも戒めら

れた。むしろ矢を放ったのは「私」ではなく「体」(IT)であることを認め、的に頭を下げるよう

に言われた。」

これは何かを正しくできたとしても、それは上手くやったのではなく、ただ邪魔をするのをやめたに

すぎないことをあらわしている。

よくよく吟味してほしい。

そしてそれを感覚できる体験をしてほしい。
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by newflavor | 2011-04-26 09:14

舞樂34

「足るを知る」

身体性の研究を続けてきたことで生命体としてのエネルギーの循環が正しく働くようになり、

身体だけではなく、こころも落ち着き騒がしくなることがずいぶんなくなった。

ばらばらに活動していた身体のパーツが繋がりあい統合されたことで充実感が生まれ、内面にも豊か

さをもたらした結果ではないか?

昔は限りなく何かを求めていましたが、今では自分の限られた生活の中で生きることに抵抗がなくな

ったようで、限られたものの中に無限の何かを見出していく方向性にこそ満たされるものがある。

これまでの研究プロセスの積み重ねにこそ「足るを知る」の状況があることが理解できた。



少なくとも自分の豊かさの方向性はこころの開放ではなく、こころを含む身体の統合にこそあったよ

うです^^

Peace! Peace!
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by newflavor | 2011-04-13 13:10

舞樂33

「気づくべきこと」

あなたの前にコーヒーがあります。

あなたはコーヒーを飲むために太ももの上にあった手をカップに伸ばします。

手はカップまでの空間をラインを引くように動いていきますが、あなたの意識は点から点へ瞬時に移

動してしまうのではないでしょうか?

つまり身体の動きにはプロセスがあるわけですが意識はプロセスなく移動してしまう。

意識と身体との間にギャップがあるのです。

このギャップの差が大きい人ほど、身体は疲れやすくこころは落ち着かなくなります。

体や意識が楽になるためにはこのギャップが小さくなる必要があります。

つまり動きに対する意識、プロセスを感覚出来る感性が必要である。

道體術ではこの感性を磨く稽古を重要に行っています。

運動そのものの分析や指導だけでは精神的な動物としての人間、その人間の精神の有り様としての

動きを見ることは出来ないし、運動や動きをただの体操的運動として捉えられても、感情や思いの

現れとして身体運動をするダンスや日常的動作を捉えることは出来ないという事になる。

この点は充分に理解しなければならない事であり、もっとも困難でもある。

それだけ人間は複雑であり、単純なロボットとは異なる部分でもある証だ。

さらにいえば一人一人がさらにまた違うのである。

指導者や療法士は、この点を充分に踏まえ指導、治療にあたらねば誰にでも同じよに処方してしまう

薬となにも変わらないのである。
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by newflavor | 2011-04-05 23:14

舞樂32 

「食とは生きることなり、食物とはいのちなり」

大きな津波が日本を襲い、沢山のいのちが奪われた...
生きること、いのちの有難さを考えさせられる...

生きることは食べることなり、他のもののいのちを頂くこと、そのもののいのちを頂いて自分のいのちを育むこと食なり。

無駄な殺生を止め必要なときだけ必要な分を頂こう。

こんなに資源はあるのに今必要な人達の手の届くところにはない...
不憫でならない、それでは意味がない...

それでも生産工場は止まらない、止められない、始める勇気もすばらしいが止める勇気も等しく素晴らしい。

今回のことで安定安心なんてものはいつ何時消えてしまう幻想のようなものだと知り、いかに生きていくのか?の重要性を改めて考えるきっかけになった。

日本人のDNAにある忍耐の強さは誇るべきことであり、それが身体に素直な日本人の姿である。

西洋と東洋の食文化、生きることすなわち食べること、食事の作法を観てもその生き様(精神性)はあらわれている。

西洋では食物に自ら口を近づける動作を目にするが、東洋、特に日本では器を自らに運び食物を頂く。
食物と人との関係性に攻めの姿勢と待ちの姿勢が見えてくる。

食すなわち生きることへの姿勢ではないか
攻めの狩猟民族と待ちの農耕民族そんなDNAが今も日本人の身体には宿っているのだ。

だからなんだって?っおっしゃる方もお見えになるかと...

そんな身体と精神性の基礎を持つ生き物が常に攻めのシステム現代社会に合わせて生きること多大なストレスにほかならない。
自分に無関心で自分のことに無意識の領域が有り余り意識の範囲が狭いため気がつかない。

こころが狭い範囲に束縛されているため、身体も緊張してしまう。
意識=外的働きと、無意識=内的働きのバランスは崩れ健康を損なう。

自然体とは何か?
意識しない姿であること
無意識の領域を知っている姿であること
その身も心も静かである。


私の好きな老子の言葉を紹介します。

微小な事柄に気づくこと
明と名付け
柔を守ることを
強と名付けよう
こうなれば五感はますます冴え
根源の光明に立ち帰り
身心に災いを遣すことはあり得ないのである
これを永遠の静寂と名付けるのである

「老子(全)」第五十二章より

こんな身心にだれでもなれます。
理解(頭)ではなく体感(経験)が重要です。
昔の偉い人が言ったおとぎ話ではありません。
始めるかどうかだけです。
根気は要ります。
頑張りは要りません。
脳ではたどり着けません。
脳を含む身体全てです。
外にではなく内を自由にする必要があります。
こころをではなく、こころを含む身体そのものをです。

書の作品は字ではなく余白を含むすべてにあります。

ダンス作品はダンサーではなくダンサーを包む空間すべてです。

意識を局部ではなく全体に...

全体が見えれば局部は自由に。
自由になればおのずと秩序があらわれる。

それ自然なりチャンチャン
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by newflavor | 2011-04-01 13:32