魂宮時

舞樂37

「仮面ライダ-」

日曜日の朝に放送されている仮面ライダ-のワンシーンがとても印象的だった。


彼は政治家の息子役で、過去にボランティアや海外支援などの経験を持つ好青年、しかし戦地に多額

のお金を寄付すれば、実はそのお金が軍資金になっていたりと(フィクションです)

自分の目のとどかない場所で時に善意も悪になりうることがあると過去を語った。

そんな経験から、彼は自分の人を助けられる距離は手を伸ばせば届く距離と両手を広げた。


その姿が妙にこころに刺さった。


助ける方も助けられる方も直接こころが触れ合う実感のある距離。

みんなが手を広げてつなげば、いつかは世界のみんなにとどく。


なぜか源泉控除される行方のわからない義援金も必要だが、日本は今こそ一人一人のこの行動が必要

なときではないかと思った。


映画ペイフォワードでも、よく似たことを小さな子供から提案されていたのを思い出した(*0*)
[PR]

# by newflavor | 2011-05-03 22:56

舞樂36

b0207323_2264163.jpg
b0207323_227461.jpg
b0207323_22940100.jpg


随分遅くなりました。1月?いや2月?それすら忘れたが舞台写真を投稿...
[PR]

# by newflavor | 2011-04-28 02:31

舞樂35

「弓と禅」

「私」と「体」の関係性について現代人の身体観は無意識に自分は体の管理者であるかのように思い

込み、体をコントロールする「私」が主で、「体」は従であるという考えをあたりまえに思っている

のではないでしょうか?

しかし、以外にも体のことを実感としてわかっている方は少ないように思えます。

ここで大切なのは「実感として...」と言う部分です。

思考で理解するのではなく、感覚的に気づく知ることが重要であり身体が示してくれる信号を実感と

して受け止め読み解く能力、すなわち感性、感受性を高めなければなりません。

言葉=思考に傾向している現代人はこの曖昧な感覚というものを素直に信じられなくなってしまって

いるようにも観えます。

実際は言葉ほど曖昧でバーチャルなものはないはずなのですが...

昔から感覚を要するものの習得はからだで憶えろと言われるように、言葉を介して学習するのではな

く自分の中の新しい経験や気づきを自分の言葉で説明できるようになることが「身につく」という本

来の学習の目的ではないでしょうか?


話を戻し「私」と「体」の関係性について「弓と禅」から紹介します。

「何年も修行をし、師が認めるように矢を放つことに成功したとき、それを誇りに思うことも戒めら

れた。むしろ矢を放ったのは「私」ではなく「体」(IT)であることを認め、的に頭を下げるよう

に言われた。」

これは何かを正しくできたとしても、それは上手くやったのではなく、ただ邪魔をするのをやめたに

すぎないことをあらわしている。

よくよく吟味してほしい。

そしてそれを感覚できる体験をしてほしい。
[PR]

# by newflavor | 2011-04-26 09:14

舞樂34

「足るを知る」

身体性の研究を続けてきたことで生命体としてのエネルギーの循環が正しく働くようになり、

身体だけではなく、こころも落ち着き騒がしくなることがずいぶんなくなった。

ばらばらに活動していた身体のパーツが繋がりあい統合されたことで充実感が生まれ、内面にも豊か

さをもたらした結果ではないか?

昔は限りなく何かを求めていましたが、今では自分の限られた生活の中で生きることに抵抗がなくな

ったようで、限られたものの中に無限の何かを見出していく方向性にこそ満たされるものがある。

これまでの研究プロセスの積み重ねにこそ「足るを知る」の状況があることが理解できた。



少なくとも自分の豊かさの方向性はこころの開放ではなく、こころを含む身体の統合にこそあったよ

うです^^

Peace! Peace!
[PR]

# by newflavor | 2011-04-13 13:10

舞樂33

「気づくべきこと」

あなたの前にコーヒーがあります。

あなたはコーヒーを飲むために太ももの上にあった手をカップに伸ばします。

手はカップまでの空間をラインを引くように動いていきますが、あなたの意識は点から点へ瞬時に移

動してしまうのではないでしょうか?

つまり身体の動きにはプロセスがあるわけですが意識はプロセスなく移動してしまう。

意識と身体との間にギャップがあるのです。

このギャップの差が大きい人ほど、身体は疲れやすくこころは落ち着かなくなります。

体や意識が楽になるためにはこのギャップが小さくなる必要があります。

つまり動きに対する意識、プロセスを感覚出来る感性が必要である。

道體術ではこの感性を磨く稽古を重要に行っています。

運動そのものの分析や指導だけでは精神的な動物としての人間、その人間の精神の有り様としての

動きを見ることは出来ないし、運動や動きをただの体操的運動として捉えられても、感情や思いの

現れとして身体運動をするダンスや日常的動作を捉えることは出来ないという事になる。

この点は充分に理解しなければならない事であり、もっとも困難でもある。

それだけ人間は複雑であり、単純なロボットとは異なる部分でもある証だ。

さらにいえば一人一人がさらにまた違うのである。

指導者や療法士は、この点を充分に踏まえ指導、治療にあたらねば誰にでも同じよに処方してしまう

薬となにも変わらないのである。
[PR]

# by newflavor | 2011-04-05 23:14