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魂宮時

舞樂 26

「挑み」

来年にむけて作品のクリエーションにとりかかる。
望むところ自分本位に創りたい、作品を客観的にみる努力はするが、うけるようにと媚びた考えは作品にとって時に不純物である。
いい作品は他人が基準ではないからだ。
たとえ結果失敗でも、失敗は失敗のまま舞台にのせるだけの度胸も必要、そこに何かが伝わるであろうと信じたい。

ダンサーはストーリーテラーではなく身体の表現者だから、話やメッセージは全てが終わった後で...
踊っている最中はむしろそんなことを考えさせてはいけない、考える隙をあたえずクライマックスへむかい、時間が止まったかのごとくダンスに魅せられていたことに気づいて欲しいと思い、考える。

しかし、いくら頭で考えても、胸に思ってもいい作品は生まれない。

頭=思考
胸=感情
胎=魂

実際に身体と向き合わなければ、何も始まらない。
生きる意味を探すより、より今を生きてこそ意味があることの証明だ。

では身体を動かそう。
いつものように動体術(身体の基礎を調える良法で本当の身体を取り戻す行為)を行い、基礎稽古をはじめる。
たまに動体術の指導で、これは修行と捉える人もいるが、それは本当の身体になることを困難で大変だと思ってしまっているからではないか?
決して修行ではない、+でも-でもなく0=中真に戻ることで、本当の自分と自身を”思い出す”だけ、体得し、習得し、慧得する。

身体の中心に位置する胎(丹田)魂が鎮座する場所である仙骨を活かし中真感覚が発露する。
本当の自分と自身がよみがえる。

ヨミガエル...?

おっ!生と死は表裏。
あの世からの視点でこの世を観れば誕生はまさに「黄泉」から「帰る」こと黄泉帰るだ。

生から死も、死から生もどちらも同じこと、存在する次元が違うだけかと中真を慧得する。

頭やこころは影響を受け変化するが、胎-女性の子宮が象徴だが男女ともに性は不変なもの、本当の自分とは不変なもの、思考や感情によって自分だと思っている者は本当の自分ではない。

本当の自分で踊ってこそ望む作品にいたる。
まさに創造です。

by newflavor | 2010-11-21 02:19
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